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2005年08月

GMイネ野外実験の差し止め裁判から見えたもの
この2ヶ月余りは新潟のGMイネ裁判に没頭していました。主食のコメまでGMを許すかどうか、その大事がかかっているからです。

裁判を通して、とても重要なGMの新たな問題点(耐性微生物の出現)が明らかになりました。リスク評価の科学性への疑問、不備もクローズアップされました。少し長文ですが、これまでのまとめ、報告致します。

<農水省が推進するイネゲノム解析とGMイネ開発>

これまで遺伝子組み換えイネ(GMイネ)の開発を手がけてきた日本企業はGM食品に懸念をもつ消費者が多数を占めるという現状では商品化は困難と、すべて撤退している。しかし、農水省はバイテク推進政策のもとでイネゲノム解析研究で優位に立つ日本はGMイネでなら特許を押さえることができるとみてGMイネ開発を強力に進めてきた。

1991年に日本政府は国際イネゲノム配列解読コンソーシアム(10の国と地域から構成)を立ち上げ、昨年12月にはイネ「日本晴」の全ゲノムの3億9千万からなる塩基対の配列の完全解読を達成した。解読されたゲノム配列を基にして、現在は遺伝子の構造や機能などを明らかにする解析を進めている。

トウモロコシやコムギもイネ科穀類のため、ゲノム上の遺伝子の並び順にイネとの相同性があり、イネゲノムの配列を利用すれば、イネに比べ何倍も遺伝子数の多いトウモロコシ、コムギでも、その重要な遺伝子の位置や機能がわかる。つまりイネゲノム解析は人類の主食穀物の遺伝子情報を一手に握ることができるため、熱い解析競争が繰り広げられているのだ。こうしたイネゲノム解析と連動してGMイネの開発が国家プロジェクトとして推進されている。

<GMイネの野外栽培実験>

そして、ここにきて、各地の農業研究機関では温室実験からさらに進んで野外栽培実験が行われるようになっている。しかし、こうしたGMイネの野外栽培試験の主体は、交雑など環境汚染や、食べた場合の健康被害、また風評による経済的被害などについて、責任はとらないし、とれない状況でありながら「実験は有用」との一方的理由で推進されている。

愛知、岩手、平塚の野外試験は市民の反対によって中止に追い込まれ、また、北海道のように独自の規制条例を制定するところもでてきた。こうした動きに危機感を抱いたのか、農水省は今年予定されているいずれの野外栽培実験も強行する構えをみせた。新潟県上越市の中央農業総合研究センター・北陸研究センターのほか、東北大学(仙台市)、農業生物資源研究所(つくば市)では、地元の強い反対にもかかわらず、いずれも田植えを強行したのだ。

<北陸研究センターの野外栽培実験>

北陸研究センターの場合、地元の有機生産者グループや農民組織、生協、消費者グループが再三の抗議、地元集会、国会議員会館内集会でも署名提出を行なって要請したにもかかわらず第1回の田植えを5月31日に強行した。これは穂が出る前に刈り取るというもの。しかし、第2回目に田植えされるGMイネは実らせ種を取るという。その田植えが6月末と発表され、なんとしてもこれを止めさせなければ米どころでの風評被害や、花粉による遺伝子汚染など取り返しがつかなくなる。

農水省は日本の農業の未来に対して、なんのビジョンも持っていないのではないかと疑念を持たざるを得ない。国産特許をとれる画期的組み換え技術というが、特許のかかった種子が生産者のためでも、食べる消費者のためでもないことは確かだ。いやそれどころかとりかえしのつかない災禍をもたらす可能性があるのに、市民が納得できる論拠も安全性の証拠も示せないままに栽培を強行するのを見過ごしにすることはできない。野外実験差し止め提訴を神山美智子弁護士に相談したところ、たちまち6名の弁護士さんが手を挙げてくれ、弁護団が結成された。地元の農民組織や生協から次々と原告に名乗りを上げてくれる人たちが現れ、総勢12名(後にセンターに最も近い田んぼを持つ農家も加わり13名となった)の原告団結成が成ったのだった。柳原敏夫弁護士が中心になって全身全霊を傾けて裁判を牽引していった。そして6月24日に急遽申立を新潟地裁高田支部に行なうことができた。

6月28日には第1回双方審尋(両方から主張を聞く)がセンターのある新潟地裁高田支部で行なわれたが、センター側は翌日29日には第2回目の田植えを強行した。

センターが植えたのは、「コシヒカリ」系統の米「どんとこい」に、病害に強いカラシナの遺伝子を導入したいもち病などに強いイネで減農薬になるというふれこみのものだ。センターは2002年から研究を始め、温室実験を経て今年から屋外での実証実験に入った。

しかし、通常の交配育種で病気に強い品種が次々と作り出されているのに、わざわざ安全性の不確実な組み換え技術を使う必要性はない。本気で農薬使用が問題だと認識するなら、大量の農薬散布を強いてきた航空防除や一斉防除をまず止めて、有機農業への転換を真摯に追及すべきだろう。それなくして減農薬だとGMイネを売り込むのは減農薬を隠れ蓑にしているとしか思えない。

<争点>

双方の審理進行のなかで、最終的に、次の2つが争点になった。

ア、野外実験の交雑防止策が安全性の見地から十分かどうか。
イ、カラシナ遺伝子由来の抗菌物質ディフェンシンがイネから流出するが、それが耐性菌の出現の危険性を引き起こすことへの安全対策が採られているかどうか。

<交雑防止策>

われわれの調査で、農水省の栽培指針にある交雑を起こさない20mというデータはたった2株の実験によるもので、データは極端に少なく科学的根拠とするに足るものではないこと。それが証拠に今年4月、25.5mで交雑したという論文が出たとたん26mに改定される有様だ。隔離距離について「交雑は起こり得る」との当方の指摘への反論はできず、時期的な隔離(一般農家のイネとの出穂期間をずらす)も、実際のズレがわずか1日しかないことを認めた。そこでセンター側は物理的防止一点にかけて出た。当初、「袋掛けするかまたは組換え個体栽培区を不織布等で覆う」と言っていたのを、裁判の後半では、GMイネにパラフィンの袋をかぶせ、下はビニールシートで包んで紐でしばる、さらにGMイネ植え付けの田全体を不織布で覆うという。これでは野外栽培実験場のなかに室内実験施設が作られるようなもので、野外栽培のまっとうなデータがとれるはずがない。しかし裁判官はここまでやるというのだから、交雑はおきないだろうとの判断に傾いたようだ。

<耐性菌出現の問題>

さらに今回初めてクローズアップされた重要な問題点が、ディフェンシン耐性菌の出現・流失・伝播の危険性である。カラシナ始め人間も含めた生物は生体防御機能として抗菌物質(ディフェンシン)が必要に応じて生産される。しかし、GMイネは、ディフェンシンを常時大量に作り続けるように加工してあり、田んぼの微生物がGMイネから溶出するディフェンシンと頻繁に接触することによって、これまであり得なかったディフェンシン耐性菌が出現する可能性が高くなる。実験室では耐性菌が出現したという論文がすでにいくつもある。栽培規程ではこのような耐性菌出現はまったく想定されていない。自然界ではあり得なかったことが、GMイネの出現によって引き起こされ、これまでにない新たな問題に直面することになる。あとになって被害がでても、そのときは予測不可能だったで済まされるのだろうか。微生物の研究者である金川貴博さん(元・東京工業大学大学院教授)が陳述書を書いて下さり、7名もの研究者がそれを支持する見解を出してくれた。

しかし、この指摘は、裁判官は「自然界では、これまでに起きていない」という相手主張を採用して、退けた。新しい技術がもたらす危険性は過去のデータがないからといって今後起きないといえるものではないという科学的認識と、予防原則の認識に欠けるものだ。

<判決>

4回の審尋を経て、8月17日に判決がでたが「却下」であった。ただ、判決文の後半は異例の記述で、相手方への厳しい注文がついた。われわれは即日東京高裁に抗告を行なった。
この裁判で、750株のGMイネ全部に前述の厳重な防止策を取らせることになったのは意味があったと考える。また、裁判が県民の高い関心を集め、新潟県が栽培規制条例の検討を始めるきっかけとなった。また新潟県市長会が中止を求める決議をしたり、津南町議会、五泉市議会なども中止決議を採択するなどの動きがひろがることにもなった。

今回の裁判では微生物、育種、分子生物学など専門家の方々が惜しまず協力をしてくれ、弁護士さんたちの献身的な作業と原告、支援者がメーリングリストを使って一体となってGMをめぐる法の不備、微生物への影響、花粉の交雑などについてつぎつぎと問題点を明らかにすることができた。画期的なことであったと思う。今後のGM問題の取り組みに生かしていきたい。
ここに、これまでの裁判に対するみなさまのご支援に御礼を申し上げます。(安田節子)

*東京高裁での戦いに移ります。引き続き裁判支援の輪を広げてくださるよう、お願いします。陳述書はhttp://gmine.seesaa.net/で見ることが出来ます
2005年08月21日更新
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コメ生産の未来はどこへ向かう?
 日本農業は衰退の一途をたどっている。食料自給率の低下に歯止めがかからない。FAOが危険ラインとする穀物自給率は20%だ。20%を切ると国家としての存立が危うくなる。日本はすでに28%に落ち、危険ラインに入るのはそう先のことではない。唯一自給を保ってきた主食のコメの輸入が視野に入ってきているからだ。重要品目とされ490%の高関税で守られてきたコメだが、今後のWTO交渉でいずれ引き下げられるのは目に見えている。こうした状況を頭に第一部第2章や特に第4節を見てみると、危機感を持った、もっと思い切った転換が必要と思わされる。
 国産の消費者の信頼の確保に向けた取り組みが、残留農薬検査やトレサビリティなどにとどまっている。環境を最も汚染しているのが日本農業と言われる。単位面積あたりの農薬使用量が世界一だからだ。農薬使用量の削減目標を打ち出し、一斉防除や農薬の空中散布をやめるべきだろう。それなしに「環境保全を重視した農業生産の推進」は実現できまい。また、消費者重視といいながら、一方で消費者が望まない遺伝子組換え(GM)イネの開発を国産特許をめざすとして農水省傘下の研究機関が推進している。
 日本は面積の小さい田畑が隣接し、台風、豪雨、自然災害も多い。GMイネの野外栽培実験や実用化が交雑・混入をもたらしたら、取り返しのつかないダメージとなる。「多様な農業の共存」ということばが出てくる。GM、慣行農業、有機農業の共存かと思われるが、それはあり得ない。GMが一方的に汚染するだけだ。
 農業は本来、健康、環境、生物多様性を守り、持続可能で循環的な生命維持産業なのだ。目先の特許だ、儲けだというまえに人々が真に求め支持する、安全で、遺伝子操作されていない、質の高さを誇れる食べものを作るのが正道であり、それが持続可能性に繋がる。

農業と経済」2005年9月別冊「農業白書を読む」のコラム「白書を読んで」に執筆
2005年08月10日更新
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地元に組み換え稲実験反対の盛り上がりー行動に参加して
実験中止を求める差し止め仮処分裁判の第四回審尋が7月20日新潟地裁高田支部で行なわれ、申し立て側代理人の弁護士2名が出席し、原告3名が陳述しました。裁判支援者が30人以上も地裁ロビーに集まりました。

その後上越市の商店街をトラクター3台を連ね、むしろ旗などを掲げ約100名もの人たちが実験反対のシュプレヒコールを上げてデモ行進しました。



天気は曇りで風もさわやかなデモ日和。街のなかにシュプレヒコールの声が響き、通り過ぎる人たちは好意的な反応でした。むしろ旗を初めて見ましたが、「危険稲」と赤字で大書され、迫力がありました。このあたりは農民争議がたびたび起こった土地柄だそうで、淡々とむしろ旗を組立てていく年配の生産者たちの姿に腹の据わった頼もしさを感じました。



その後、裁判支援組織の「新潟県の米と環境を守る連絡会」の集会がもたれ、弁護士さんと原告の人たちから審尋の内容が報告されました。生協、運動団体、農民組織、国会議員、市議、消費者団体などから支援のアピールが続きました。運動の広がりを感じました。  
この後、夜には、北陸研究センターと上越有機農業研究会が主催(上越市後援)する「遺伝子組換え作物を考える市民のための勉強会」が開かれ、250名が参加。推進と反対、異なる立場の2人の研究者による講演を聞きました。



市民側からは河田昌東氏が組み換えでは減らなかった農薬、安全性試験のお粗末な内容、また自生ナタネの深刻な実態、組み換え技術の根本的問題性を詳細な検証に基づいて指摘。推進側の講師大島正弘氏には会場から「農薬」使用を進めてきた当局への怒りをにじませる発言が続き、センターが減農薬をうたって組み換え稲を開発することへの反発を感じさせられました。

水稲は、ダイオキシンを含む有害な2・4D除草剤に始まり、胆のうガンを引き起こすとされて中止になった除草剤MO(CNP)、いもち防除に有機水銀剤それにBHCなどの有機塩素系農薬という具合に、後に禁止になるような残留性の高い、危険な農薬がたくさん使用され続けてきました。いまは有機リン系の農薬を以前と比べ安全な農薬といって使用、航空防除でも大量に散布しています。しかし、サリンにみるように有機リン剤は神経毒があり、微量を繰り返し浴びると、頭痛、眼の異常、化学物質過敏症、アレルギー、ガンなどを引き起こします。これらの最大の被害者はずっと生産者だったのです。カエルもトンボもドジョウもいなくなった日本の田んぼ。これまでの農薬行政の犯罪的行為を反省することもないままに、世の中の減農薬の流れを、今度は遺伝子組み換え推進の口実に使おうとしている、その欺瞞性を農民の人たちは嗅ぎ取っていると感じました。

翌21日は地元の有線放送が昨日の集会を詳細に伝えていて、地元の大きな関心事になっていることを実感しました。また、この日新潟県の市長会は実験中止を求める決議を行いました。
次の審尋は8月3日に双方が出席して行われます。日本の今後のゆくえにかかわる判決は8月10日。ご注目ください。そして裁判支援を!
2005年08月01日更新
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